ホワイト・ハンド・コーラスについて

「音楽は全ての人の権利である」エル・システマの創設者であるアブレウ博士の言葉です。崇高な音楽の世界に導かれ、スラム街の子どもたちは精神的な居場所を見出し、刑務所で服役中の囚人たちは家族との温かい絆を深め、耳の聞こえない子どもたちは生きがいに目を輝かせています。
 クラシック音楽が限られた人のものであったベネズエラ社会の中で、また聴覚障害というだけで音楽から切り離されることの多いこの世界で、耳の聞こえない子どもたちが、世界最高峰の音楽家とともにザルツブルグ音楽祭で演奏するなんて、誰が想像したことでしょう。2013年モーツァルテウムにおいて、プラシド・ドミンゴ始め聴衆が涙してスタンディングオベーションを送ったのは、彼らの内なる喜びが聴く人の心を捉え、その演奏が音楽の本質的なところに触れるものであったからに他なりません。

 ホワイトハンドコーラスは、声を出して歌う合唱と、白い手袋をはめて手話で表現する合唱の二つが一組となって演奏します。視覚障害者、身体障害者、知的障害者が声を合わせてハーモニーを織り成す一方で、聴覚障害者はその声と一緒に手で歌詞を表現し、呼吸を合わせて体の動きで「歌う」のです。音楽という友を得た聴覚障害の子どもたちが「僕には音楽がない生活なんて考えられない」と言うほど、聞こえないはずの「音」と一体になるのはなぜなのでしょう。

 その答えを見出すためには、音楽を聴くということが何かを理解する必要があります。私たちは音楽を「聴いて」感動するのであって、ただ「聞く」のではありません。私たちの耳は20~20,000ヘルツ位までの周波数しか認知できないので、健康な人もコウモリの超音波は聞き取れないですし、本当はオーケストラが発する音の一部しか聞こえていないのです。音は聞く人にも聞けない人にも音波として届きますが、私たちには聞こえない音、聞こえても聴こうとしない音もたくさん存在しています。また、聴覚障害者の中で先天的に音が全く聞こえない方は全体の千分の一で、ほとんどは難聴者なのです。難聴には軽度のものから重度のものまで、要因も様々であり、多くの方は音の記憶を持っていたり、損傷の部位によっては聞こえる部分があります。私が以前関わっていた耳の聞こえない子どもたちのための音楽教室では、感覚を研ぎ澄まし、全身を傾けて「聴く」ことに必死な子どもたちの好奇心があふれていました。楽器を試しながら「この音はまつげに響く」「この音は体にビビっと電気が走るみたい」と言う子どもたちの姿から、私は「聴く」という根本的なことについて随分考えさせられたことを思い出します。

 フランス人女優で聾者でもあるエマニュエル・ラボリ(Emmanuelle Laborit)はその自伝的著作『かもめの叫び』(1995, 松本百合子訳,角川文庫)の中で、自分の世界と音楽についてこう語っています。「私は静寂の中で生きていた。でも、完璧な静寂というのは一度も経験したことがない。私の想像力は常に音を伴った。私の静寂には色があるのだ。モノクロだったことは一度もない。私にはきこえる目がある。」

 「聴く」ことを知っているホワイト・ハンド・コーラスの子どもたちが、私たちを引き寄せ「聴かせる」力は、内面の豊かな世界がまさに見えない壁を超え、音を超え、私たちの心に届くからです。彼らには歌う手があり、伝えたい思いが溢れているのです。
 音楽とは「音」から生まれ「音」から飛び出ていくものではないでしょうか。素晴らしい音楽を聴いた後に残るのは音の振動や周波数ではなく、それを超えて人間の中で創造される心の動きなのだと思います。生き生きした感情が踊りだし、心を揺さぶる感動を残す時、もうそこに「音」は必要ないのです。音楽家としてこれほど素晴らしい境地に至れたら本望でしょう。
 テレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラの来日ツアーに合わせ東京芸術劇場では11月21日(土)13:00−15:00、ホワイト・ハンド・コーラスの専門家を招いたワークショップが開かれます。きっと半信半疑の方や、怖い気持ちを拭いきれない方もいらっしゃるかも知れません。この日はそれぞれの壁を破り、音楽がすべての人のものであることを確かめたいと思います。耳のいい方も、遠い方も、難聴者もろう者も、この出会いを是非見届けて頂ければこれ程嬉しいことはありません。

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2015年 テレサ・カレーニョ・ユース・オーケストラ来日コンサート
プログラム寄稿文